日本のインフレは本物か:30年ぶりの構造変化が株式市場に意味すること
はじめに:「物価が上がる国」になった日本 スーパーに行くたびに感じる値上げ。外食の価格表を見て驚く瞬間。「また上がったの?」——そんな声を最近よく聞きます。 数字で見ると、その実感は正しいです。日本のコアインフレ率(生鮮食品を除く消費者物価指数の前年比)は、日銀の2%目標を45ヶ月連続で上回っています。2024年度の名目賃金上昇率は前年比+3.0%と、1991年度以来33年ぶりの高さを記録しました。 第一生命経済研究所の分析によれば、2025年に入ってからは日本の物価上昇率がG7で最も高い水準にまで達しています。消費者物価は3.6%上昇し、他の先進国が2%台に落ち着く中で突出しています。 30年以上デフレに苦しんできた日本が、インフレの国になっている。これは一時的な現象なのか、それとも構造的な変化なのか。 そして、この変化は株式投資にとって、実はとても大きな意味を持っています。 なぜ30年もデフレが続いたのか インフレがなぜ株にプラスなのかを理解するには、まずデフレが企業に何をしてきたかを知る必要があります。 1990年代のバブル崩壊以降、日本経済はほぼ一貫してデフレに苦しみました。その悪循環は以下のようなものでした。 モノが売れない → 値下げ競争 → 利益が出ない → 賃金が上がらない → 消費が増えない → さらに売れない 企業は値上げができない環境に適応し、コスト削減と内部留保の積み増しに走りました。「現金を貯め込んで何もしない」と海外投資家から批判されてきた日本企業の行動は、実はデフレという環境への合理的な対応だったとも言えます。 デフレ下では、現金を持っているだけで実質的な価値が上がります。投資してリスクを取るよりも、何もしないほうが「正解」になる。だからこそ、日本企業のROEは長年低迷し、株価も上がらなかったのです。 何が変わったのか:3つの構造的要因 2022年以降のインフレは、最初は輸入原材料の価格上昇や円安というコストプッシュ型でした。しかし、キヤノングローバル戦略研究所が指摘するように、現在は「需給要因を伴った基調的なインフレが定着しつつある」段階に入っています。 ① 人手不足と賃金上昇 最も重要な変化は、構造的な人手不足です。 少子高齢化が進む日本では、労働力人口が構造的に減少しています。特にサービス業、建設業、物流業では深刻な人手不足が続いており、企業は賃上げなしには人材を確保できなくなっています。 内閣府の分析によれば、パートタイム労働者の時給は2024年度に前年比+4.3%上昇し、統計が遡れる1994年度以降で最も高い伸びを記録しています。 2024年、2025年と2年連続で春闘のベースアップ率は3%を超えました。ゴールドマン・サックスは、ベース賃金上昇率が「持続的なインフレと整合的な水準」である3%に達したと分析し、「日本経済は持続的なインフレへと至る分水嶺を越えた」と表現しています。 ② 企業の価格転嫁力の回復 デフレ時代、日本企業は「値上げ=客離れ」を恐れ、原材料費の上昇を自社で吸収していました。しかし、この行動パターンが変わりつつあります。 人件費や物流費の上昇を販売価格に転嫁する動きが広がっており、日銀も「企業の賃金・価格設定行動は従来よりも積極化している」と認めています。 これは企業にとって大きな変化です。値上げができるということは、利益率が改善するということだからです。 ③ 予想インフレ率の上昇 日銀のレポートは「中長期の予想物価上昇率は緩やかに上昇している」と繰り返し述べています。 消費者も企業も「今後も物価は上がる」と予想するようになると、それ自体がインフレを維持する力になります。賃上げ→値上げ→さらなる賃上げ——この「賃金と物価の好循環」が成立すれば、デフレへの逆戻りは起こりにくくなります。 なぜインフレは株式市場にプラスなのか ここが最も大切なポイントです。 デフレは株式の敵、インフレは株式の味方——これは、世界の株式市場の歴史が示している基本原則です。 理由①:名目成長率の拡大 インフレ環境では、企業の売上高が「量」だけでなく「価格」でも成長します。 ゴールドマン・サックスのデータが象徴的です。2025年の日本の実質GDP成長率は1%程度ですが、**名目GDP成長率は3.4%**と予測されています。この差はインフレ分であり、企業の増収を支えています。 理由②:企業利益の構造的改善 前回の記事(東証改革とPBR)でも触れましたが、日本企業のEPS成長率は2008〜2019年の年率2%から、直近では年率8%に加速しています。この加速の背景には、インフレによる価格転嫁力の回復と、名目賃金の上昇による消費の拡大があります。 理由③:「現金で持つリスク」の顕在化 デフレ下では現金が最も安全な資産でした。しかし、インフレが年2〜3%で定着すると、銀行預金の実質価値は毎年2〜3%ずつ目減りしていくことになります。 100万円を普通預金に入れておくと、金利がほぼゼロのまま物価だけが年3%上がれば、10年後の実質購買力は約74万円にまで下がります。 つまり、インフレ時代においては**「投資しないこと」がリスク**になるのです。これが、日本の家計が「貯蓄から投資へ」動き出している大きな理由の一つです。 理由④:不動産・資産価格の上昇 インフレは株式だけでなく、不動産を含む実物資産全般の価格を押し上げます。日本企業が大量に保有する不動産や設備の含み益が拡大し、それが企業価値の再評価につながります。 注意点:インフレにもリスクはある 公平を期すために、リスクについても触れておきます。 ①実質賃金がまだ追いついていない 名目賃金は上がっていますが、物価上昇のペースが速いため、実質賃金(物価を考慮した購買力)は一進一退の状態です。家計が「豊かになった」と実感するには、もう少し時間がかかるかもしれません。 ② 食料品価格の上昇が家計を圧迫 日本の食料品価格は2024年末頃から前年比6〜7%で推移しています。食料自給率が低く輸入依存度が高い日本では、円安と相まって食料品インフレが特に厳しい状況です。 ③ 日銀の利上げペース インフレが定着すれば、日銀は利上げを継続します。利上げのペースが速すぎれば、景気を冷やすリスクがあります。 まとめ:「物価が上がる日本」で投資を考える 30年間のデフレが終わりつつあるという事実は、日本の株式市場にとって歴史的な転換点です。 企業は値上げができるようになり、利益率が改善している 賃金が上がり、消費が拡大する好循環が生まれつつある 名目GDP成長率が実質成長率を大きく上回る時代になった 「現金で持つリスク」が顕在化し、投資への資金シフトが始まっている デフレ時代の「何もしないのが正解」という考え方は、もう通用しません。 ...